三浦あずさ誕生日記念SS「10 years after] (前)

蓋を開ければ月様二つ。
網膜に覆われし、厚塗りされた半球体を見る。
それは、料理人の繊細な調節で出来上がる、至高の一品である。
先程注いだ水は、ほとんど消え。逆に浸食を抑えてくれる。
加熱する機器を止め、その浅い鍋を利き手でない方で掬い、片方の手で焦げをなぞり、削ぐ。
湯気と音だけで、涎の出そうな鍋から、白と黄色のコントラストが盛られる。
――と、その動作を終えた刹那。フライパンとは比べものにならいほどの音が響く。
それは、彼女が振り向かなくても分かる。なぜなら、この家には二人しか住んでいないのだから。
「おは――」
「おはよう、あずさ」
彼はこちらを見ず、台詞を被せながら、新聞を手に取った。
それを一瞥しながら、食卓に置かれたコーヒーを啜る。
その格好は、彼の戦闘服であるスーツ姿。
一人でなんなくこなす彼は、ネクタイの整えから、折りたたむハンカチまで完璧であった。
「待って、もう朝食が出来上がるから」
彼女の見る皿の上には、見事な目玉焼きが出来ている。
オーブントースターの示す時間はあと2分。これを同じお皿に置けば、立派な朝食である。
「いや、もう出るからいいよ。ミーティングが早まって」
既に置かれたサラダを突き、新聞を広げはせず、机の上に戻した。

そんなこと……昨日は言ってなかったじゃない。

あずさの呟きも束の間、足音は玄関の方へと向かっていく。
彼女には、まだ言うべきことがあった。
ととっ、と、小走りで彼に追いつく。自らの身につけるエプロンで手を拭い、後ろで一本に縛った髪束をほどく。
「アナタ、今日――」
そして、役者は追いつく。台詞は、言い放たれる。
「悪い、帰ってからにしてくれないか」
それを最後まで言うことさえ、許されない。
いつもよりも急ぎ足なのは見て分かる。けれど――
「いってきます」
手は届かず、重い扉は鈍い音をたてて閉じる。
安全防止のランクを上げる鎖が揺れ、そして玄関には、彼女だけが残る。


誕生日の日くらい、キスしてくれたっていいじゃない……。



――三浦あずさ誕生日記念SS「10 years after]



三浦あずさは、運命の人と結婚をした。
彼は彼女をトップアイドルへと導いたプロデューサーであった。
二人は仕事を通じて、様々な物語を紡ぎ、そして彼女は気づいた。彼こそが、自身の求めた運命の人である、と。
あずさは専業主婦になり、彼は事務所での仕事に戻った。
トップアイドルへと導いたプロデューサーなだけあり、彼には新たなアイドルが付いた。彼女がユニットとして解散をしても、またアイドルは付く。彼はそういう仕事をしている。
自身が経験者であるため、その忙しさは理解していた。彼は別に、家庭を犠牲になんかしていない。私と同じように、トップの座へと導こうとしているだけだと。
その想いが、寂しさへと変わり、いつしか心が離れていくと気づくには、10年の月日が経過していた。
「……」
カリッ、と、焼けたトーストを囓る。
箸で目玉焼きとサラダを交互に突きながら、風で揺れるカーテンを見つめていた。
先端はよりにもよって、半熟となる黄身に命中する。そこから膿のように汁が垂れ、白い大陸を黄色く染める。
一人の食事が増えた。
決まって、朝は一緒に向き合ってくれた。夜はテレビ出演やレッスンで遅くなることもあり、間に合うことは滅多にない。だから、といって、彼は朝は一緒にいてくれる。
その時間が、とても愛おしくて。
「……」
もうすぐ夏だというのに、蝉の一つも鳴かず、テレビさえも点けないこの部屋は、静かすぎる。
自身の食という行為が、鮮明に伝わる。
それでも、目線は消費する存在に向いてはいない。
「……ごちそうさま」
そうは言うけれど、お皿のものはあまり減っていない。微塵となっただけだ。
それでも彼女は片す。自身で終えたというのだから、抵抗する意味はない。
「天気もいいし、お洗濯しましょう〜。お洗濯」
ごちそうさまの合図ではなく、手を合わせ、次にする行動を決める。
へこんでいても仕方ない、私は主婦なのだ。一日でやれることは、キチンとする。
それが、今の私なのだから。

                ・

こういう時、携帯電話というものは便利だ。
言葉が届かないのならば、一方的に叩き付けてやればいい。
……とは言うが、どうすればいいのだろう。
「……う、う〜ん」
一行だけ、わずか数秒の指打ちにて、送信のボタンを押した。

今日は晩ご飯、どうされますか?

パタン、と、携帯を閉じる。
昼下がり、全ての業務を終えた主婦の憂鬱。
綿菓子が宙に浮くかのように、白い雲が天に鎮座し、見上げる海は天体さえ見透かすようだった。
洗濯物が見える。部屋には塵一つない。食器も棚に戻した。
ならば、溜息のひとつくらい、優雅に過ごしても良いではないか。
あずさはカウチソファーに寄りかかり、携帯をもう一度開く。撫子色の紫陽花が見えた、待ち受け画面なのだろう。
斜線が3本引いてあろうと、欲しい物はそう簡単には届かない。携帯のせいでも、ましてやセンターのせいでもない。彼が単に忙しいだけ、だから、この行為は時間の無駄な消費でしかない。
まるで女子高生ね、と、苦笑。
改めて携帯を閉じる。そして、彼女は立ち上がる。
特別なことはなにもせず、けれど、自身に落ち度はないように気をつける。
元々着ていたノースリーブにセミフレアスカート。その服装で、鏡の前へと向かう。
主婦といえども、外を出るからには少しでも自身を気にかける。
アイドルだったが故の癖かも知れない。目線を意識さえしなければいいのに、と。
「旦那さまへも、同じことかもしれないわね……」
伏せていても仕方がない、出ると決めたからには、笑顔を振り撒くくらいの姿勢でなければ。
先程、彼を見送った扉へと来る。一瞬だけ、取っ手を触れて、ゆっくりと離す。
要らぬ動作をし、履いた靴の踵を一鳴らし。扉を開く。
――そして、その左手に持った鍵を差し込むと同時、鞄の中から貫くような不協和音。
それが、受信の合図であると、彼女は知っている。
鍵を閉めてから、未だ鳴り続ける携帯を取り出し、停止。
文面を読む。
彼女の顔から読み取るに、晴天の世間の曇天にするには、十分な文字であったと悟る。
「着替えた意味、なくなっちゃったな……」
それでも日差しは眩しかった。蝉が喚き、世の中はいつものように動き回る。
あずさは、閉じた鍵穴にもう一度、手に持つ鍵を差し込んだ。