悲恋夢のセパレーション

聖母の奏でる鍵盤の調べが、電子音のシンセサイザーへと変遷する。
幾重の音が散らばり、全ては見事な調和を見せ、天へと至るような音楽となって世に広まっていた。楽団はそれぞれの役目を務め、彼等が際立たせるのは、この私であった。
けれど、私には全て雑音でしかなかった。私という膜を通して、全てが雑音にしか聴こえなくなっていた。
それでも私は声を張り上げていた。いや、今ではその後だといった方が正しい。
どう転ぶかわからないから人間の人生というものは楽しさで満ちあふれている。
個とする自身以外は全てが他人でしかなく。他人だからこそ、彼等の思考を理解することは出来ない。
このメロディーも同じ事だ。
全に、美しい音色に聴こえていたとしても、私という絶対的な中心者に響かなければ、それは断固として雑音でしかないのだ。
「めて……」
ならば私がすることは何だ。
そう、まずは耳を塞ぐことだ。
嫌な物には蓋をする。合理的な思考であり、避けたいのならば行って損のない事であった。
けれど鼓膜は、その音を伝える。音は反響し、私に全てを伝えた。
ならば、次に何をすればいい。
何をすれば止まるというの?
「やめて!!」
その音に勝る、「音」を作ればいい。
だから、私は叫んだ。
ピタリと止む音楽の後に、彼女の手からマイクが零れ、鈍い音が世界に響いた。


アイマスSS:「悲恋夢のセパレーション」


雌雄という言葉がある。
ここでは、一対という意味よりも、勝敗という意味を持っている。
彼女にはもう選択肢がなかった。
目指すべき山は既に登り切り、数本しか立たない頂上で旗を掲げ。
残された夢は、本当に最後。
それをぶつけ、拒絶されてから、アイドルを続ける意味はなかった。
――いや、続けることは選んだのだ。
ただ、時が解決する。そんな問題ではなく。
単純に告げれば、彼女にはもう偶像になりきるだけの、笑顔を作ることさえも難しい状態となっていた。
「大丈夫ですか?」
眼鏡を掛けた少女が、私の視界で、濡れタオルを掲げていた。
前プロデューサーと別離してから数ヶ月。アイドルであることを選んだ私に、社長は、プロデューサーではなく、サポートとして、私にマネージャーを就けた。
「ええ……大丈夫よ」
私は、それを奪い去るように受け取り、自らの額にそれを当てる。
心配そうに、こちらをのぞき込んでくるのが伺えた。けれど私はそれを無視し、項垂れるように俯く。
正直、アイドルとしてやっていくことは、もう無理だと感じていた。
演奏が始まっても歌うことは出来ず、踊ろうとすれば足は竦み、アピールをしようにも、苦く痛々しい顔しか出来ない。
底辺アイドルよりも最低、とさえ、烙印を押されても良い状況であった。
それでも社長は何も言わない。
それは――トップアイドルとしての私を、殺したくないからなのか。それとも、既に見限られているのか。
この、新人のようなマネージャーとパートナーという時点で、後者の方が可能性は高いかもしれない。
「あの……?」
自らが作った暗闇で、筆を走らせすぎたようだ。悲観じみた思考など、私らしくもない。
いや……今の私らしい、の方が正解とも言える。
「……何かしら?」
私は、顔を上げて、彼女に振り向く。
その顔は、もうアイドルとは言えないのだと、自身で感じた。
「い、いえ……その、本当に大丈夫なのかな、って」
どんな顔で、私は彼女を視ているのだろう。
嘘で笑顔を作る事なんてなかったのに、なぜ今は嘘でも笑顔でいれないのかしら。
「大丈夫と言ったら、本当に大丈夫、だから。15分、それだけ、一人で居させてもらえないかしら?」
渡されたタオルを、マネージャーである彼女に持たせ、そう告げる。
彼女は困惑しつつも、すぐさま部屋を後にした。
その扉が閉まった途端、瞬時に部屋は静寂と化す。
「どうして、なのかしらね」
ラストコンサート。あそこで、彼にプロポーズをしてから、私の活動……というよりも、人生は大きく変わってしまった。
彼は私と行かなかった。断られた後は顔が腫れるまで泣き続け、枕は水没させたかのように湿っていた。
3日が経ち、私はアイドルを続けることを選んだ。
既に彼は別のアイドルをプロデュースするため、忙しなく働いていた。何もなかったかのように、私という風景だけを切り取り、自らの人生へと進み始めたのだ。
その光景を見て、「ああ、もう何もないんだな」と、空っぽの心に手を当てた。
除夜の鐘は既に数を終えていた。役目を終えれば後は夜明けを待つだけ。
ならば。と、私は夜明けを目指すことを選んだ。
その日差しが照らすまで。
歓声と照明で彩られた、夜明けの世界へと向かうことを。
――そんな綺麗な物語が、現実に待っていることなんてない。
繋がれた手錠は、そう簡単に断ち切ることはできなかった。
鎖だけが延々と伸び、彼が進むことで、私はその歩幅に追いつけず転げていた。
意識しているつもりはないが、呪縛は、全てあの日から始まっているのだと知った。
アイドルは、運命の相手を見つけるための行動であった。その目標は今からだって再開できる、けれど、見つかっている以上、それ以外を目標として立ち続けることが私には出来なかった。


いくら上手く歌えても、彼は私を見てくれない。


いくら上手く踊れても、彼は私を見てくれない。


そう、そう思うからこそ。
私は、アイドルでいられない――
「あ、あずささん。そろそろお願いできますか?」
静寂の海で、うねりとなって声が聴こえた。
本当に大丈夫ならば、私は昔のように脳天気に反応出来た。
そう出来ないのは、今の私が昔の私ではないから。
けれど――私は、この場所にしか居場所がなく。
「ええ……今すぐ行きます」
言葉さえ、限られていることに気付いた。



頭を下げて、私は同じ場所へ戻る。
皆が笑顔で、心配ない、そちらこそ大丈夫か、と、決まり切った愛想で私に接する。
トップアイドルという地位が、ギリギリ私を繋いでいるのだと悟る。
少しだけ、胸が痛い。
「はい、じゃあもう一度いきます」
演奏者が自らの楽器と向き合うように、私も、一本のマイクへと向き合う。
私は、まだこの場にいていいのだろうか。
わからない。
自身の解答は出ているけれど、それを採点してくれる人が、私の周りには一人も居なかった。
けれど、私は、まだこの場所に立っている。
皆が私を見つめ、私に期待をしているのだと、私は感じた。
私は、なぜまだ歌うのかしら。
わからない。
それでも、私はまだこの場所に立っている。
――鍵盤の調べに乗せて、涙を流しながら、三浦あずさは一曲を歌い上げた。
彼はなぜ、私とのプロポーズを断ったのだろう。
もし、了承されていたら?
そんな考えさえも、今だけは離別させて。